映し絵


大自然に包まれて

tsuru.jpgtsuru.jpg釣りには様々な形がある。近所の里川から海まで、目的も違えば狙う獲物も違う、そしてその道具もまた色々。
 私たちは基本、岩魚しか釣らない。そして目的は「源流域の大岩魚」である。そのために場所は源流、数を釣るのとは違い、仕掛けのパターン、手法もまた違う。それぞれ釣りを楽しむ人は自分なりに考えるだろう。創意工夫。これが釣りの醍醐味だと思う。
 源流域に到達するまでには長い時間歩く。そのための準備、道具。徒渉の知恵、泳ぐための装備。何度も失敗した。そして学んで、また挑戦する。大きな自然の中で、大岩魚と出会うために。



美しさと厳しさと

tani.jpgtani.jpg写真だと伝わらない光景がある。遠くから山を見て溪の滝を見れば、人は美しいと感じるだろう。しかし私たちは同時に恐れも感じる。狭まったゴルジュの溪、水圧に押し戻され、掛け合う声は爆音にかき消される。わずか数メートルの滝さえ越えられない。岩をへつり、足を滑らせれば死を覚悟せざるをえない場面もある。
しかしふと一息つく、するとやはり自然の造形に感激する。シャッターをきる。その溪の十分の一でも切り取れたろうか。



はるか上流へ

sakanoboru.jpgsakanoboru.jpg岩魚は低温の源流域を好む。渓相は様々。切り立った岩壁に足が竦む。時には遠く山を越え尾根を歩く。天候の変化、雪崩、増水。計画と準備が届かない時もある。渓での怪我のリスクは大きい。100m崖下の渓では、足をくじいただけで容易にはあがれない。激流にのまれれば、呼吸する間に見えなくなるだろう。危険な場所。慎重に状況を分析し判断する。たどり着かない時だって何度もある。それでもまた私たちは行く。身体の全部を使い、はるか上流へ。



同じ瞬間を感じて

tomo.jpgtomo.jpg私たちの会には上下関係が存在しない。会が発足してからこれまで、年齢に関係なく横一列。会長なんていない。経験豊富な者もいれば、そうでない者もいるが、上も下もない。ただあるのは同じ「思い」ただそれだけ。渓で厳しい状況になれば、おのずと役割が決まり、その時的確な状況判断が出来る者が、リーダーとなる。全てを預け行動する。トップで濁流を泳ぐ者、そして支える者。テン場に帰れば、自分に出来る事を考える。誰かが薪を拾えば、誰かが岩魚をさばく、みんなで飲んで、みんなで片付ける。辛さも楽しさもみんなで。



一瞬の情景

kei.jpgkei.jpg自然は同じ時を刻まない。たとえシャッターを連続できったところで、同じものなど存在しない。あの暗いトンネル、永遠に続きそうな道。澄み切った空、夕暮れの木々。残雪の足跡、叩き付ける水の音。毎年訪れる渓でも、本当は違う景色。記録に残った情景は二度とない一瞬。



疲れ果てた身体に

kurau.jpgkurau.jpg身体が空っぽになり、何か食べなければと思う。普段は感じない、空腹の限界。「食べる」という単純な行動の意味を理解する。生きるために食うのだと。飽食の時代だが、原理はかわらない。殺し,喰らう。それは忘れたくない。忘れていはいけない。だから大切に、生きる命を喰らう。



大人だから

asobu.jpgasobu.jpg子供の頃は何でも面白かった気がする。木に登ったり、川で泳いだり。がらくたでも何でも遊んだ。擦り傷だらけだった。いつしか遊びの形が変わり、やがて大人になった。しかし与えられた遊びには限界があると感じた。またあの時の楽しさを探すように、帰って来た。また傷だらけになった。でも昔とは違う、大人だから、子供よりもたくさん知識があり、道具もいっぱい覚えた。際限なく飛び出すアイデア、形にする力、相手は自然。今の方が本当は面白いんだ。


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